@izumisano

約5年の大阪は泉佐野の生活を経て、次は川崎は溝の口。美味しいものをお伝えできれば。

「涙」について、少々書いてみると。

涙腺のお話。

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人には喜怒哀楽の感情が備わっている。誰にでも。

神様が、そういう仕様で人をつくってしまったのだから、それは賛否両論あったとしても、どうしようもできないことだ。

神様がすごいのは、そこに「涙」を加えていることだ。まるで何かのエッセンスのように。

嬉しい時にも、悲しい時にも、悔しい時にも、状況によって「涙」が流れる。誰にでもだ。

吠えるように流す時も、肩を震わせて流す時も、静かに流れる時もある。誰にでもだ。

「涙」は、語らずとも何かを伝えることができる不思議なモノだと思う。それを逆手に取る女性もいるくらいだから。

 

涙を流す「涙腺スイッチ」は、成長とともに増えてくる。

生まれた頃は、泣くのが仕事だ。全ての表現が泣く、みたいなところがある。

もう少し大きくなれば、悲しさで泣く、ということを覚える。

青春時代ともなると、とたんにスイッチの数は増えくる。頑張ってもダメだった時の悔し涙、好きな女の子に振られた時の悲し涙、映画を観てのもらい涙、何かをやり遂げた時の嬉し涙、などなど。涙の使い方が増えてくる。

結婚の時期には、幸せ涙なんかも出てくる。こんな涙はいくらでも流したい。

 

そんな様々な「涙腺スイッチ」を僕も人並みに持っているのだが、ここ最近、新たなスイッチが、ひとつ増えたようだ。気付かぬうちに。

子供を見て泣いてしまうのだ。

もちろん、普段は生意気なうるさいガキどもなんだが、ここ一番のイベント(卒業式や入学式、運動会や発表会など)で見せる姿は、自然と涙を誘われる。

何故なんだろうか、何の涙なんだろうか、と首をかしげてもようわからん。

子供の成長の嬉しさか、一生懸命さに胸を打たれるのか、はたまた幸せ涙なのか…。

とにかくイベントで子供を見ていると、誰かが「涙腺スイッチ」を押すのである。ポチッと。でもそれは不快なものではなく、幸せを感じる類のものである。だこら、ありがとう、とその誰かに言いたいぐらいである。

 

これが新たな「涙腺スイッチ」で、今後歳を重ねると、さらに増えていくのだろうか、と考えてしまう。それは人生の楽しみのひとつとして、期待しておこう。

 

ここまで色んな「涙」に想いを馳せてきたのであるが、ふと別次元の「涙」があることに気付く。

 

あくびの涙は何なんだ?

 

という疑問である。

生物学的に言うと、おそらく目の乾きが…、みたいなところだろうと思う。

でもせっかく「涙」の素晴らしさについて書いてきた訳だから、もっと創造的に考えたい。

こんなのはどうだろうか?

 

神様が気を利かせてくれて、人間の仕様に加えてくれたモノだと考えると、神話的な感じでおもしろくなるんじゃなかろうか。

人は涙を見せたくない傾向にある。人知れず泣く姿は、どこか格好よく見えたりもする。

そんな見せたくない涙を誤魔化すひとつの逃げ道と捉えるとどうだろう。

「何泣いてんのー?」

「泣いてなんかないさ、あくびが出ただけなんだよ」

こんな映画のシーンなんて腐るほど見てきた。どんなシーンでも当然のように当てはまる。悲しい時、嬉しい時、悔しい時、幸せな時…。

 

きっと、あくびの「涙」は神様の粋なはからいなんじゃないかと。

 

さあ、逃げ道はある、明日からまたじゃんじゃん泣こうじゃあるまいか!身体中の水分がなくなるくらいに。

 

涙の数だけ強くなれると、岡本真夜は何度も何度も歌い続けたし、

君への想い 涙そうそう、と夏川りみは同情を誘い続けた。

草野さんは異次元の声質で、同じ涙がキラリ、をみんなの合言葉にまで昇華させた。

みんな「涙」を歌っているのだ。

 

泣くくらいの何かが起こっているとき、それが人間のホントに「カッチョイイ」瞬間なんじゃなかろうか。